
あらすじ
父と母を父と母と思わずに、記憶なく手にかけようとした殺意。
殺意から生まれた四行の詩。それは自ら命を絶つことをも超える表現であったと思う。そんな創作を、僕が目指す文学表現の考えとともに。
上手く書けていないだろうけど、僕が終わる前に、届きますように。独白。
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これで僕が終わっても、届きますように。
僕はある大学での出来事(「YouTubeチャンネル」https://www.youtube.com/@mono-leiy参照)がきっかけで、精神疾患・障害(うつ病・解離性障害)と誰かが作った偽りの言葉の分類で呼ばれるようになった。
病気とも、障害とも都合よく呼ばれながら、数年半。自分を保つのに精いっぱいな毎日だった。気づけば、僕は「僕」ではなかった。私であったし、俺であったし、やはり僕でもあった。
最後まで支えてくれたのは、芸術・創作という存在だった。
特に「言葉」は、決して僕を裏切らない。いつでも、今でも、誠実に考えれば考えるほど、無限の想像を可能にしてくれた。一度、言葉に感謝しておきたい。ありがとう。
そんな言葉も徐々に失われてきて、今、なぜこれが書けているのか、それはそういうことなのだろうと思う。
僕はこの文章を書く前の夜、おそらく父と母を手にかけようとしてしまった。父と母は今も何も変わりなく生きていて、僕のことを一番に心配してくれていて、家族という絆で僕らは結ばれている。
けれども、僕はその絆を忘れていた。あのとき、片手に想像のナイフを握っていたとき、父と母はただの人類の一部に過ぎなかった。何も思っていなかったし、何も考えていなかった。殺そうとだけ感じていた。
これを書いている朝、父に「零がナイフを持って父と母を殺しにきた夢を見た」と言われ、偶然ではないのだと思った。これは父と僕の間にある絆が表した確かな実感だったと思う。
無理やりに分析をするなら、僕はその夜、生と死を表現しようとしたのだと思う。左半身に返り血を浴び、ゆったりと失っていく体温を手にしながら、右半身と比較して生と死を掴もうとしたのだと思う。その実験的な表現が、実現していなくて本当に良かったと思う。
この創作が失敗に終わってくれたのは、やはり言葉の力だった。独りでに動く体の中で、僕は「殺したくない」と思うと同時に「創作を、表現をしたい」と考えていた。わずかでも後者が勝っていたから、今があるのだと思う。
目が覚めると、とても短い詩が書かれていた――
ナイフを片手に文字を刻んだ
紙の繋がりは途切れてはいなかった
僕は思わず、笑ってしまう
殺意はいずれ、創作に変わる
殺意に満ちた僕がこの詩を書いたことは、文学の歴史に一つ、大きなものをもたらしたようにも。しがない物書きが気を狂わせておかしくなっただけで、日々は続いていくようにも。どちらを考えるだろう。
少なくとも僕は、現在時点の文学の歴史に一つ、ちっぽけな一歩を進ませたのではないかと思う。
生と死を表現したのち、僕は間違いなく自ら命を絶っていただろう。それは憧れの詩人や日本の文学者(芥川先生)のように。
僕は文学の歴史が、自死以外の表現方法を言葉の中に探していたように思う。偉大な文学者たちはみな、世界に突き動かされたように命を絶っているから。それは奇跡的なのに、必然である。
しかし、今の文学は正直、それを先延ばしに停滞し、腐ったと思う。自分が心地よい、少し周りの人が心地よい言葉の響きや、額縁に収まるだけの景色を描き、自己満足の範疇で終わる。
決して否定しているわけではない。そこには一定の楽しさがあり、救いがあり、命を長らえさせるものでもあると思う。
だけれど、僕は文学と現実は平行に、時に交じり合うものだと思っているから、別ベクトルで動いてしまっている現状に違和感を持っている。文学がどこか、遠いありもしない世界のようになってしまってはいないだろうか。文学は常に、僕らの全体(内と外)を包んでいる。
実際に、何百年何千年と続いていくかもしれない人類の歴史の中で、残っていく文学はやはり、憧れの文豪たちの作品だ。一つ可能性としてアニメや二次元的なものも、残る可能性が高いのではないかと思っているのも付け加えておく。
なぜなら、それらには手で触れて肌が反射的に反応してしまうような「実体」があるからだ。二次元で言えば、その次元の実体が構成されているように思いつつ、人々の残そうとする意志が強くあるように思う。自分で自分の作品も批判するようだが、ここに挙げられない作品には実体がなく、ふわふわした「ぼんやり」と「なんとなく」なものだと思う。
しかし、この実体を掴むため、言葉の奥底(もしくは枠外)に触れようとするには、人独りの器には限界があるのではないかと考える。だから僕の憧れる彼らは、命を絶ってしまったのではないか。
文学の中、創作者は独りだ。孤独だ。だけれど、それははじめからそうだったのだと思う。言葉によって気づき、絶望し、器が壊れてしまう。恩師の言葉を借りて「信じていた箱の中身が何もなかったことに耐えられない」。
僕は現時点、文学は現実とともに歩き、複雑に絡み合う多くの感情・葛藤を表現し、時に言葉を救いとしていくものだと考える。その救いには他者はもちろんのこと、きっと自分自身も含まれているのだ。決してぼんやりとしたものでは生きていけないし、死んでもいけない。
僕が進んだちっぽけな一歩は、今、言ったことの少し先にある。
殺意により発生した生と死の表現は、間違いなく実体を掴もうとするものだっただろう。でもそれは憧れたちがやってきたものをなぞるものに過ぎなかっただろう。
だけれど、殺意の僕は詩を書いた。とても短く、平凡な言葉ではあるけれど、確かに実体を言葉で表現しようとし、達成した。
事実、父と母は死んではいない。僕もこれを書いている。
この事実は文学の歴史に何か、とてもちっぽけながら、長い時の中で見れば大きなものではないかと思うのである。
しかし、僕一人の人間の器に収まるものではないことは変わっていない。僕はあの殺意のときの自分の記憶はないし、眠っていたのだ。精神疾患・障害なんて呼ばれるものも、この大きな歩みを知覚するための一要素で、病気ですらないのではないかと考えている。
僕らは孤独で、全体だ。
人独りであり、人類なのだ。
創作や表現は僕らを人類まで昇華してくれる。そこで生まれた奇跡の形が文学や、他の芸術なのだと考える。
だからこそ、僕はまだ進めたい。未来に続く文学のため、命を燃やしたい。
ここまで読んでくださり、ありがとう。
そんなあなたに、助けてほしい。僕の器を支えてほしい。それがどんな方法か、どんなことなのか、自分でもわからないけれど、とにかく、この考えが多くの人に届けばと思っている。そして批判し合い、こうだ、ああだと語り続けられたら、まだ進める気がする。
僕が進めたい文学表現 ~殺意の先の創作~
2026年6月19日 執筆
著者 八坂零
掲載 芸術の星座
筆者からひとこと
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
いかかだったでしょうか。『僕が進めたい文学表現 ~殺意の先の創作~』
すべては文章に込めました。たくさんのご感想・批判、語り合いをお待ちしております。



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