視覚詩(形象詩):『水鏡の手前で(みかがみのてまえで)』|創作

視覚詩(形象詩)

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『水鏡の手前で』縦読みリンク

 水鏡に映る幼き子

 それは死にたいというだろう

 だってわからないことを無くしたいのだから

 橙色の豆電球が

 暗闇でちかりら光る

 死にたくなるのもわかるでしょう

 水鏡に映る老いた子

 それは生きたいというだろう

 だってわからないことを安心して置いておけるのだから

 竃に残るあの炎が

 明るみでもがぱちりっちと燃える

 生きたくなるのもわかるでしょう

 手と手を合わせて揺れる狭間

 僕は在るというだろう

 だってわからないことは創るのだから

 消えたい空に不死鳥の舞う姿が

 零時の中にただ見えるだけ

 在るだけなのもわかるでしょう


      水鏡の手前で

2021年5月18日 執筆

         著者 八坂零(やさかれい)

         掲載 芸術の星座

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

 いかかだったでしょうか。『水鏡の手前で

 筆者としては本当に懐かしい。詩を書きはじめた頃の作品です。粗削りなところが多く、伝わりにくいことばたちとなってしまっているかもしれません。

 このあと、筆者は自分の中身が透明であることに気づいていくのですが、今読み返すと、その部分が色濃く出ている詩ですね……。

 右から左へ、そして反対向きになっていることばたち。水鏡というのは湖や池に映った自分について考えているのかもしれません。さらに、反射した自分は幼かったり、老いていたり、はたまた現在の自分自身だったり。

 最後に「手と手を合わせて揺れる狭間」(縦読みで言うと、文字が反対になっているブロック)を読んだあとに、もう一度「水鏡に映る幼き子」からお読みいただけると内容が深まるような気がしますので、おすすめです。

 みなさんは水面に映った自分を見たとき、一体、どんな自分が見えるでしょうか。
 幼き自分か、老いた自分か、今の自分か。それともまったく別の自分か。筆者からのひとことでした。

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